教育現場の「育(はぐくみ)」はどこに行った?
ことし中学校に入学した知人の娘さん。
その学校(教育現場)でこの夏に起きた話を聞いて、少なからず驚いた。
北国であるはずの札幌も、例にもれず猛暑の影響を受けているのは皆さまご経験の通りだ。
彼女の通う学校では、冷房機器の設置が追い付いていないことも相まって、ポータブル扇風機の持ち込みが許可されているそうだ。
ある日の休み時間、ある男子生徒と廊下ですれ違った際に身体が触れてしまい、そのはずみでポータブル扇風機を床に落としてしまったそうだ。
生徒同士の接触そのものは大したことはなく、ケガの心配は全くなかった。
ただ接触のはずみで落としてしまったポータブル扇風機は落下時の衝撃か、機器内部の接触不良を起こすようになってしまい、その日はたびたび機能の不具合を起こしてしまうことに。
「今日はこんなことがありました」
と、帰りの学級会で一日の出来事をクラスで共有発表するのが日課の当該中学校。
当然だが、その場にいる担任教師も知るに至る。
問題はここからだ。
生徒の下校後、職員会議でもこの案件は全教職員にエスカレーション共有される。
教職員全員で事態を重く見る方向に傾いてしまった結果、教頭から善後策として出された結論が、
「新しいポータブル扇風機に買い替えるよう、保護者に連絡を」と相成ったそうな。
その日のうちに担任を通じて事態と機器買い替えの必要性を聞かされた保護者は驚いた。
当の娘本人から何も聞かされていなかったからだ。
何事かと心配になり、本人に怪我はなかったか、機器の損傷はどれほどかと改めて確認してみると、
「はぁ?なんで?」
と娘本人からあきれられる始末。
男子生徒とは肩がぶつかった程度だし、ポータブル扇風機も元通り普通に機能している。
むしろ学校からの指示が不思議でしょうがなく、保護者は折り返し担任教師に連絡を入れ、現状を報告することに。
ところが担任教師からは、ポータブル扇風機は必ず新しいものに買い替えるように、との指示。
機器そのものは普通に機能しているうえ、このご家庭では「ものは大切に使い続けるように」との教えをこどもに説き続けてきたことも相まり、あまりに一方的な指示を繰り返す学校にその理由を尋ねたところ、
「発火の恐れがあるため」だそうだ。
なるほど、多くの生徒や学校関係者が集う場である中学校だ。
たしかに危機管理観点から事をとらえたら、「発火の恐れがある」器物は学校現場に持ち込ませるわけにはいかない。
しかし、だ。
落とした当初こそ接触不良の症状を起こしたものの、先の学級会時点では元通り機能回復しており、当の担任教師も確認済みである。
またその旨(元通り機能回復している事)を職員会議でも共有し、全教職員は共有を受け認識している。
少なくとも、
「まずは電気店やメーカーで故障点検を受け、落下衝撃による発火の恐れのありなしをチェックしてください」
そのうえで
「発火の恐れが否定できない場合は、新品への買い替えを」
との「指導」はできないものか。
「新品への買い替え」一択で、「落下した該当機器は以降持ち込み禁止」の「指示」を曲げない教育現場とはいかがなものか。
帰りの学級会では、
「廊下ですれ違う際はよそ見などしないよう気を付けよう」
「持ち物は大切に使おう」
と生徒間で改めての注意喚起と確認事項を共有したそうだ。
学級会その場に陪席する教員は生徒の主体的思考や議論を促し、程よく場の運営をフォローする。
生徒自身による「自治の場」としての学級会は十分機能していたのである。
本来の教育現場は、
主体者である生徒たちの成長を見守り、
現場で起こる様々な問題や事態をむしろ「題材」にし、
当事者間での問題解決を促し、
将来を担う13歳の少年少女の当事者意識を育む「舞台」ではなかったか。
学校という教育現場は、「教育」が行われる場である。
科目教科を「教える」だけではなく、子供の成長を「育む」場でもあるはずである。
リスクマネジメントとはいえ、大人の論理でこどもの主体的結論や自治を覆すようなことを行うようでは、
教育為政者みずからが、「育み」の場を放棄しているようなものではないか。